テクノロジーへの違和感
ディーゼルはもはや禁句ではない--ガソリン代替エネルギー最有力候補の現状 - CNET Japan から引用
「安価」といえる状態の石油がなくなるまでに、おそらくあと50年は残されているだろう。安価な石油とは、十分に豊富かつ低価格でマイカーの燃料として使用できる状態を指している。石油を安価に入手できなくなると、運輸サービスや軍事利用、緊急車両などでしか使用できなくなるだろう。許可を受けたクラシックカーの収集家などは年間1000ガロンの購入を許可されるだろうが、そうでもないかぎり、石油とその高価な精製物であるガソリンの規則外目的の消費がどうなるのかは想像がつかない。
しかし、それはずっと先の話だ。このコラムを読んでいる大半の読者は、そんな時代になる前に高齢に達して免許を取り上げられているだろう。われわれが心配しているのは、ガソリンがいつなくなるかではなくて現在いくらでガソリンを買えるのかであり、大気汚染が現在どの程度深刻なのかであり、ガソリン消費によってどんな地球規模の問題が生まれているのかだ。「プリウス」のようなエコカーに乗っている一部のユーザーを除き、大半の人たちが求めているのは、マイカーを新しい基準で選択することではなく、燃費がよくそこそこに格好もよくて、今乗っているものよりも安価な自動車だ。
別の言い方をしてみよう。さらに発展した自動車の登場を阻んでいるのは、石油会社の陰謀や自動車メーカーの新奇性の不足だけではない。他ならぬわれわれ自身なのである。われわれは、高いエコカーなど要らないと態度で語っている。
そして、車に求めることは
経済性と俊敏性、高級感である。
と、言い切っている。
記事の終盤では、現代の技術力をもってすればディーゼルは33倍クリーンになる。だからディーゼル車に対する法律も変えなければならないと言ってます。
こうじゃないと石油燃料の問題は解決しないんでしょうかね。ガソリンはまだまだあるよ・・・なんて誤解される口調で書かれているのが問題のような・・・。これは翻訳の所為?
ちょっと話がそれるかもしれませんが、僕の相方のおばあちゃんからこんな話を聞いたことがあります。
戦後まもない頃、車なんてとんでもないという時代。滋賀から大阪まで徒歩で、お米を売りに来ていた方がいたそうです。今考えると俵を持ってどうやって?と、びっくりするような話ですが。おばあちゃんは、その方が来る度にお米を買ったそうです。ご苦労様という気持ちからなのかどうかはわかりませんが、何よりそのお米がとてもおいしかったそうです。
時代は変わってその方が直接大阪に来ることはなくなり、お米を届ける手段が宅急便になっても、その方の田から獲れるお米をおばあちゃんは買い続けています。
おばあちゃんは、おじいちゃんが「おいしい」といって喜んでくれる姿が見たくてお米を炊き、お米とお米をつくってくれた方に感謝する。昔はこんな『つながり』があったんですね。そしておばあちゃんは毎食、素材を厳選します。近くにあるスーパーよりもちょっと遠くの市場まで自転車で行き、売り手と会話をして、自ら素材を確かめています。「おいしい」と食べてくれる家族の笑顔を想像しながら。
地域を感じながらものを食べるということで、おばあちゃんはちょっと豊かなのかもしれません。僕が生まれた頃は、そういう面影はあったかもしれませんが、今ではそのカケラさえ感じなくても生活できてしまいます。
こんなことを書いても、古くさいと一蹴される可能性大ですが、経済性や俊敏性、豊かさを求めてやってきた中で、とてもびっくりするぐらいのメリットがあったかどうかは、はたして分かりません。
便利になったと言っても未だに人は忙しく、余裕がなく、経済的にも潤っている人はほんの一握り。車が高機能になればなるほど、そこに水準をあわせる現代社会では当たり前のことなのかもしれません。
追記: 上記の引用記事について。車を利用する側からすると、代替エネルギーには大きな期待を寄せる部分であるので、とてもいいことのように思いますが、何故法を変えないといけないかなど、説明や伝える内容が不十分なような気がしました。よい方向へ向かいつつあるのに、それが間違った解釈をされるとまずいんではないかと。
